昭和46年09月22日 朝の御理解
御理解 第13節
「神は向う倍力の徳を授ける。」
神は向う倍力のおかげを授けるとはおっしゃってない、倍力の徳を授けると仰っとる。神様へ向うと信心とわが心が神に向うのを信心というのじゃとわが心が神に向うということはしかも倍力の徳につながると言う。徳につながると言う事はどう言う事であろうか。昨日は親教会に月次祭にあわせて秋の御霊祭りかございました。若先生とそれから光昭と親子三人でおかげをいただきましたわけでございますが、昨日親先生が半年ぶりに装束をつけられて、御祭主をつとめられました。
拝ましていただきながら、大丈夫であんなさるだろうかと思うことのほうが強かったですけれども、無事にお祭りをつかえおえられました。それであちらえ下がられて、昨日はあんなにむし暑うございましたから、すぐ裸で汗を拭いたり、扇風機をかけたりなさっておられましたから、私はすぐ親先生どんなでございましたか体の具合はどんなふうでしたかというて行きたいと思うてすぐ立たせて頂こうと思いましたら、神様が待てと言う事を仰ったんです。
それから私はどう言う事だろうかと思うて分らなかった。分らなかったけれど暫くして親先生が大坪さんというて手招きされますからそれから漸く参りました。昨日は霊祭に始めて先生扱いを受けた訳ですけど、御直会に先生と二人でお茶をよばれました。そしてお茶をよばれました。そしてお茶をよばれながら親先生から、もうこれは他の人に言われたって詰まいと思われる様な、御相談をいくつか受けた、はあこういう御相談を受けるために大坪さん一寸といわっしやったつちゃろうかと思わん事はないですね。
けれども私はそこん所を、私が御用を頂かなければ、頂く者はあるまいと思わせて頂いた、そこには御用頂かせて貰うて、おかげを頂かんならんとか、徳を受けんならんとか更々感じませんですね。今度この御用頂いていっちょひと徳受けようとか、いっちよおかげを頂こう等とは更々思いません、まあそれを悪い表現でいうなら、私は利用されるという感じしかありませんね、けれども私の心の中には、利用されるのは三井教会、あれだけ沢山の信者がおられるけれども、私より外になかろうと自分でも思います。
ですから、利用されるそのこと自体が有難いですね、例えてこれがお金ならお金の利用の場合ですよ、利用しょうというものがですよ、お金のないものに相談持ちかけるはずは絶対ありませんですよね。これに相談持ちかければ、これを利用すれば利用されてくれる、例えばそれがお金であるなら、いうならばお金を持っとるからと思はなければ利用はしやしません、そういう時にです、はぁもし私があわてまわって、親先生お体はどんなふうだったじゃっろうか、というて行ってお話しを聞いておったらです。
それはそんなに感じなかったかも知れません、けれどもそこに私が一寸待たせて頂いて親先生から呼ばれた、普通無いことですからね、私共はいつも信者と一緒にしか御直会は頂きません、お茶は先生は裏でお茶を頂きなさる、私は今まで呼ばれたことがなかった。昨日だけは信者の御直会を出される前に大坪さん一寸ちいうて呼ばれて、先生方と一緒に御直会をよばれましたがね、今日はいうならば先生扱いをして頂いたと、いうだけでなく矢張りそこに何かがあったとこう思いますわけですね。
ですからこれを悪く頂くと俺を利用しよる、利用しようと思いよるから、今日はそのうまいもの食べて油断するなとはこの事じゃろうと思うて誰が利用されるかというて、頑張っとったらですね、私はおかげ頂かんと思うですね、いつ、私の場合はいつも、また利用しようと思うとるといつも、その利用されることを有難いと思います。そこには何にもないある先生が私にある先生というよりも、鹿児島の行徳先生がある時に、大坪さんああたは、確かお話し聞きますと、随分どんどん御用ができなさるげなが。
どげな心持ちで、御用されますかと私に聞かれました、私は先生いっちょん大して御用というのは、当たり前のことを当たり前にさせて頂きよるだけで、御用とも実は思うとりまっせんちゅてから、返事があたらなかったのか、それなりになりましたけれども。それこそ御用させて頂く度に徳を頂きますからとか徳を受けるためとか、どういう心掛けで御用頂きなさるですかと言う事に対して、昔なら何かそう言う事に対して昔なら、何かそういう返事になったのでしょうけれども。
私の場合には本当に何かもらうとか頂かんならんとか、徳を受けるとか、おかげを受けるとか私は更にないです。親教会の御用は、これは親教会だけじゃありません、御本部だってそうです、然もですよ、大坪さんちょいとと呼ばれてからのおかげが素晴らしいと思うですね、それをね悪い言葉でいうと、利用するだけ俺を利用する時だけ、むごういうてからと、利用しょうと思いよるばいのと言う様な思いでなくて、利用されるなら、私より他にはあるまいとこう思うです。
神は向こう倍力の徳を授けると仰るのは、そういう神様への向かい方ではなかろうかと思います。こちらが利用されれば神様が利用されて下さるからそういう了見がない、けれども実際に答えの出てくるのはです、矢張り私の為に神様が使われて下さる、私のために神様が利用されて下さる、神様が進んで利用されて下さる、そのこと自体がお徳です。願わんでもおかげを頂くのですから、これがお徳です。
神は向ふ倍力の徳を授けると仰る、一生懸命拝んだから一生懸命参ったから、私はお徳を受けるとかおかげを受けるとか言う事ではない、そういうそこんところを、それは実際は、一生懸命お参りをする、一生懸命一心不乱の御祈念をする。それで成程おかげを頂くのですがね実際は、けども私はそう言う事でおかげを頂くのは、矢張りおかげだけだと言う事です、一心に頼めい、おかげは和賀心にありと言う所をです。
例えばそのおかげは和賀心にあるから、一心にどうぞ和賀心になりますようにというて願うのではなくて、おかげをと言う所をね、私どもはおかげはと言う所をまず、はっきりとはずさなければいけません。一心に願へおかげでなくて一心に願へ、それは和賀心になることを願へと言う事は、和賀心になること自体がおかげを頂くのではなくて、和賀心にならして頂くこと自体が自分が楽であり、自分がおかげを受けておると言う事である。おかげを頂かんならんから和賀心になるのではいかんです。
私は厳密に自分自身の信心を思うて見るとに、そう言う事になっておるように思うのです、私の場合は自分が助からなければ馬鹿らしかもん、自分が助からんならんというのは自分がいつの場合でも楽におれれる、状態でなからねば馬鹿らしかもん、だから一心に願う事は、どの様な場合でも美しい心でまたは豊かな心で、どの様な事であっても、自分の心一つのなかに泳がせておれるような、心を頂くことだけを願はんと、こういう心におかげが頂かれるから、和賀心になると言う所にこれはね。
私の信心を厳密にいうてそうなのです。こうやってお話しょつてから、なるほど私はそうだなあと思うです、どんな例えば、問題であっても、自分の心の中に一つも心配ないとか、不安がないとか、これは困ったと思わんですむこと自体がですね、助かっておる証拠です、だから、そういう助かり、そういう自分になりたいことの為に、日参もすれば夜参りもする、修行もするということです。
けれどもそこにはそういう心に、今度は矢張りいわんでもおかげがあると言う事ですから、この辺をね切り離すと言う事は一寸難しいようですけれども、実際はそうじゃないです、自分自身が助かってみるとね、自分自身が楽になってみると自分自身が豊かになってみると、もうこれだけで良いという気がします。そうでしょうが暑い時でも暑さを感じん、寒いときでも寒さを感じん程しの、人は血の涙が流れるというのに、こっちは有難が流れると言う様な、いうならこれ自体が助かっていることなのです。
これが和賀心にならなければ、そういうおかげは受けられん。だからその事だけを一心に願えおかげは和賀心にあると仰る。その一心に願うけれどもおかげはと言う所を私共は切り離す程しの信心であらなければいけない。そういう私は信心になると言う事がね。ですから信心には油断が出来ん疎かにされん。神様に向う心というものを離したらもう不安になる。もう心配になる。もうたったその位の事が涙のでるごと腹が立つ。
ですから馬鹿らしい、そういう行き方ならばこういう行き方があるのにそういう行き方をせねばならぬのは馬鹿らしい。自分を利用するときだけむごう言うてから、というのでなくて。然も無条件です。これだけころころ御用させて貰うから条件を付けない。自分がおかげを頂くために神様が神様の用を足せば氏子の用は神が足してやるとおっしゃる。ですから氏子の用は。この辺のところは何というかですかね、教えの落とし穴といった様なものを感じますね。
氏子の用は神が足してやるとおっしゃるから神様の御用をさして貰う。神様が成る程嘘をおっしゃる筈はないです。けれども、そこんところはもう無条件。利用されることそれ自体を有り難いと思う。然も何故有り難いかというと、利用されると言う事は力が要るときには、力がなければ神様が利用しなさる筈がない。自分が五十斥位しか持ちきらん、力がないのに神様が百斥のものを持てくれと頼みなさる筈がない。
もうぼちぼち百斥位は持てると神様が眼を付けなさるから百斥持ってくれと言いなさるのです。だから百斥のその御用に自分の力が行使される事が有り難い、行使したからおかげを受けよう、徳を受けようというものが全然ない。そういうところがですね、これは私どもの分域でなく、神様の分域です。おかげを下さる下さらん徳を下さる、下さらんはもう神様の権限内です。それを私共がおかげの世界にこちらが足を踏み込んだり、お徳の世界に自分が足を踏み込むようでは、神様を私は犯すことになると思う。
神様を犯すと言う事は、これは大変御無礼な事であり、言うならば怖いことになるのです。私は今日はそこんところをしきりに御祈念中に思わして頂いとった。神様の分域を犯すと言う事は御無礼な事である。けれどもそういう人がどの位多いか分らん。人間は人間の分域だけを守って、信者は信者としての分域だけを守って、そして神の用を足せば氏子の用は神が足してやると仰るのは、その後に頂こうとは思うとりません。
けれども体験として生まれてくるのは成る程これが倍力の徳じゃなと思うだけの事です。だから実にやはりデリケートと言えばデリケートですね、難しいけれども不思議にです、それが何の条件もなしに御用させて貰える様に段々なる。しかもその受け方がです、それが有り難く受ける事が出来る様になる。「世には神を売って食う者が多いと」こういわれる、九十五節の御理解にありますね、このかたは神を商法に使う様な事はせんと、銭金では拝まぬと、言う様な御理解がありました。
世には神を売って食う、というのは神様を利用することしか知らぬという意味だと思う。ですね。神様と言えばおかげを頂くばっかりのために神様を使う、いわゆる神様を利用することだけしか知らん。そういうのは神を商法に使っておるのも同じ事だと。信心が段々分からせて頂けば頂く程、そして自分の心の中に和賀心、いわゆる安らぎの心、どの様な場合でも、どの様な事柄でも豊かな心で受けられるといった様な助かりを私どもは願い求めて信心させて貰う。
そういう心で神様に向かうときに、神様はいわゆる倍力の徳を授けて下さるんだなと、後で体験させて貰うこと、けどもねこういう時代、こう言う事もあります。そういう時代もやはりあります。例えば神様の気嫌取りをすると言いましょうか、ある方がまあ普通で言うなら大変な願いをなさった、はあ一寸大変な願いだなと私は思うた。ところが常日頃、この方はねもう本当に神様の気嫌取りが上手、まあいうのは親先生が喜びなさるから、親先生が好きでありなさるからと言った様な事に非常に熱意を表される。
私が喜ぶ、先生が喜びなさるから又持って行ってやろうとか、そういう行き方なんですね。だからそういう事も手と言えば何ですか、やはり手です。そういう手もあるのです。そしたら神様からですね、日頃のそうした御用に対して神様が顔を立ててやるという意味のことを言いなさってです、だからそのお取り次ぎさせて頂いても非常に楽ですね。そういう御用のどんどん出来ている人の場合のお取次ぎは、それは徳になるのではないけれども日頃それだけの事をしとるから。
神様が顔を立てて下さると言う事が、言うならどう言う事かというといつもその何と言うでしょうか、まあ痒かところに手の届く様な、いうなら神様の心にというか親先生の心にというかレンコン食う様な信心をしとる。ですから神様が蓮根食うて下さる、それはしかしどこまでもおかげです。あれが日頃あげんしてから気嫌とりをするからいよいよのときにはやはりこっちも、顔を立てにゃいくまいと言うのと同じ事です。
信者が蓮根を食うた様な信心をするから神様もまた蓮根を食うて下さる。だから私はそれがいけないとは思わない。おかげはやはり頂かんならんから、だから一ちょう本当に神様がもうそれこそ尻こそばゆうなりなさるくらいにですね、一つ親先生の気嫌を取って見るのもよい。これはおかげを頂く意味合いにおいてのことです。やはりだからそう言う所だけを研究する人があるです。
そう言う所だけに、重点をおいて信心をする人があるです。またおかげを受けるです。蓮根食うて下さる、けれどもそれは、神に向かうとはならないと思う。おかげになってもお徳にはならない。お徳というのはね、神様が蓮根食うて下さるのではなくて、無条件に神様に使われる、だから神様も、もうこれは無条件にならなければおれんというか、そういう働きがお徳であると思います。
だから私ども信心させて頂く場合ですね、そう言う事にもなって来なければいけない。けども私共の場合はそれが非常に少なくなって参りました。昔はもう本当に親先生が何を求めてござると、もう向こうから手招きされなくても、分る今先生が何を求めてござると言う事が、それが蓮根食うていくというか今は、私はその事は本当に致しません、ただ自分が利用しようとなさるなら本気で利用されようと、使われようと思うだけ、しかもそこに条件が更にない蓮根食うと、蓮根食うてもらおうなんて気は更にない。
けど多少ないと言う事はない。昨日も、お茶よばれながらこのごろはいっちょも食欲んが無いと仰る、そこで食べたいとか、頂きたいとかいうものは、ありなさらんですかというたら鮎寿司か何かなら食べたいとおっしやる。私が前の日に鮎寿司を頂いておったんですよ、このごろの総会で、それが美味しかったからね、もうそれをすぐなら明日にでも鮎寿司をことずけましょうと、ああそれなら、今日から楽しんどこうという意味のことをおっしやった。
帰って来ましたら丁度高芝さんが参ってきてありました、もうこのへんは神様が蓮根食うてござることが、よう分るでしょうが、それで早速、高芝さんに、願いまして、今日は持ってきて下さることになっております。これなんかはそれに対して、条件があるのではないけれども、蓮根食うことになるのじやないでしょうか、別に私に鮎寿司を食いたいと、いわれることがどうと言う事はないけれども。
だからこのごろは、食欲がないと言われるから次に何か上がりたいものはありませんかと言うのは蓮根食うて申し上げる事なんですね。言うならだから信心させて頂くところに本当に蓮根食うて行く様な信心もさせて頂かねばなりません。これもおかげを頂くこつあいと言うことになりましょう。けれども神様に向かう事にはならない。いわゆる倍力の徳につながるとは言えない。神様を利用しようと思って利用されるのではなくて無条件に利用される事が有り難いと言う様な信心になるときに。
始めて私は心が神様にいよいよ向った時ぢゃなかろうか。そこにはまた神様は無条件でお前のためならばと言うて利用されて下さる。その利用されて下さるその事ならばそのまま、だから神様の御信用なのですから、お前のためならばと言うて下さるのです。もうそのまま力になる、そこんところを分類するというか、分けるというか、一心に願えおかげは和賀心に在りとおっしゃられるからおかげを頂くためには、和賀心になることをまず願わねばならぬというのではなくて。
そのおかげはというところを放しておいて自分自身が、和賀心にならなければ馬鹿らしい、本気で和賀心にならして頂く事が有り難いという信心にならなければいけない。そこにはおかげはと言うのは神様が付けて下さる。そのおかげというのは、もうおかげだけではない、お徳がとものうておる。神様を利用する神様を使う。信心とはもう神様に無理を言うてお願いするだけが信心の様に思うておる人すらがある。
それでは成る程地団駄を踏む様なお願いをしたりお参りをしたりする様では成る程おかげも下さるでしょうけれども、それではお徳にはならん。どこまでも私は神様に使われる、しかも無条件で、いわゆる神様に利用される私にならなければならん。そこに神様から利用されるおかげ、そこには神様が利用されて下さるおかげがこれは期せずして頂けるもの、そこんにきがだから難しいと言えば難しい。
神様が私どものために利用されて下さるからまず、私どもが先に利用されんならんというのもちょっとおかしい。利用される事だけが言うならば有り難いと言う事、神様から手招きされとると言うときです。そこに甘いもの一つも出るときです。これは油断しちゃならんぞと心をひきしめずにそこんところするすると相手の心の中に入って行く、そして本気利用される事が有り難いと言う私、そこにはおかげを頂かんならん為に徳を受けんならんために御用をせんならんという様な答えになって来ない。
もう当たり前のことを当たり前にしておるだけ、自分が出来るからさせて頂いとるだけの事、ですけれども神様は、私にやはりお徳を下さると言う事になる。そういう生き方をです、神に向かうとはそういう事だと思う。何かこう一つも力んだものがないと言う事。神は向こう倍力の徳を授ける、成る程信心とは吾が心が神に向かうのを信心というのじゃとおっしゃった意味がわかる様に思います。
とにかく自分の心が次第に愛の心、慈悲の心、いわゆる自分の心が神心になって行く事だけが有り難い、それが楽しい。これが神に向かうのである、徳を下さる事も又おかげを下さろうとする事も、それは神様の権限内にある事であって、それを願い求めてからの打ち向かい方は神に向かうと言う事にはならない。それはおかげに向っておるのである。お徳に向っておるだけの事、お徳に向かうのではない、おかげに向かうのではない。ただ自分の心に言わば向かうだけのこと。
それが私は信心だと、神に向かう事だと思う。一徳受けようと思うてするのでもなからねば、おかげを受けようと思うてするのでもない。わが心が神に向かうというのは、和賀心に向かうと言う事、わが心に向かうと言う事。そのこと自体が有り難いんだと分からして貰うところに、それから先は言わんでも良いことですけれども、お徳が受けられるのであり、そのお徳におかげは願わんでも頂けると言う事になるのですね。
どうぞ。